海の見えない街より愛をこめて

好きって絶望だよね

新年、あけまして(未完成)

新年、あけまして と高校生のときにあけおめLINEを送ることが多かった。

「正直、新年何がめでたいねん」という気持ちと、Twitterのフォロイーの「何がめでたいねん」みたいな姿勢がかっこよく思えて真似したかったことから「おめでとう」を省いていたのだと思う。あと喪中の人にあけおめしてしまわないように最小限の配慮。

年明けの瞬間は小学生よろしく毎度ジャンプして迎えていたので年末年始特有の雰囲気は大好きだったんだと思う。

 

2026年は布団でうつらうつらしていたら迎えた。横になっていたのでジャンプはできなかった。

初日の出を見に行く元気などないので年が明けてからコンビニにカップそばを買いに行って食べて二度寝した。

起きてからは初詣に行った。とにかく人が多かったけど天気が良くて暖かかった。

2日からはお店が開いて初売りが始まると聞いて、正月はめでたいのかもしれないなと思った。

お年玉を貰うイベントもなくなったし(帰省したら貰えるのだろうか)、街を眺めたりTwitterを眺めたり、

インターネットであちらにつないで 画面の向こうのあの娘につないで

病気や障害をポップに個性として纏っていくのは変だと思う。

 

南条あや二階堂奥歯などブログ中心に日記を書く人が多かった00年代、メンヘラ神を始めとした10年代のポップで明るいTwitter中心のメンヘラの時代も終わって20年代も半ばを迎えた今、現代のメンヘラが可愛くて面白いみたいな価値観ってどこから来ているのだろうと疑問に思う。  

 

昔(昭和とか)の人からしたら精神疾患なんて馴染みがないもので、みんなひた隠しにして生きてきたものなのに今のサブカルチャーやオタク方面のインターネットでは精神疾患は馴染みが深いものとなっていて、みんな平然とカミングアウトしているし、自らを魅力的に見せるための道具として利用している。

 

私もカミングアウトしているが、それは自分が他の人より劣っていたり要領が悪いことへの言い訳になるわけでもないので最近は黙っている。

 

YouTubeでは自らの病気・障害カミングアウト動画が溢れ返り、女性Vtuber精神疾患ネタが伸びを見せれば他の人もこぞってそのような動画を作り、自らのだらしなさの象徴である家賃や公共料金の滞納でさえも笑い話にしている。

 

現実で生きづらいのはとてもよくわかるが、生きづらい要素をインターネットで自らを魅力的に見せるために使うのはなんか違う気がするし、借金も家賃も公共料金もちゃんと払った方がいい。

 

夜職(ここではコンカフェなども含みます)もすごくライトなものになってきたように感じる。

 

懐古厨みたいになってきたが、2010年代のインターネットの方が好きかもしれない。

ニコ生でみんな生身で戦ってた時代。

 

ここに書いてきたことは全部懺悔です。自分が通ってきた道です。

払わなきゃいけないお金は全部払ったし、自らの過去を擦るのはやめたし、精神疾患を全面に押し出すのはやめて、夜職も向いてないんだと分かった。後払いもやめた。

 

死にたいと思うことがあっても全然頑張って耐えてるし、甘いもの食べたりしてる。

 

生きるのが苦しいのはわかるけど自傷とか自殺未遂とかやめてほしいし、自傷や自殺に使うものを買うくらいなら他のものを買った方が死にたくない時にちょっと得した気持ちになるからいいよ。

 

自殺した人の書いた文章が好きだけど、生きてたらもっと好きだったよ

愛を抱きしめてすり抜けて追いかけて

仕事はつらいこともあるけど楽しい、生きているのも楽しい、それなのに喪失への恐怖と不安で毎日が恐ろしくなることがある。

 

昨日は仕事のミスが積み重なって落ち込んで、早く家に帰りたいなと思っていたら、彼氏が後輩とご飯を食べに行きたいというので見送った。

家に帰ってきてから何を食べたのか問いただしたら、お好み焼きと言われたし、わたしとご飯を食べに行くと喧嘩になるからと言われたのがあまりにもつらくて彼氏を殴りたかった。

数年ぶりに抗不安薬をちゃんぽんODして偽物の明るさを作った。

一緒にごはんを買いに行ってもらった。

手に力が入らず生活が困難だったし、今もじんわりと頭が痛いし、彼氏に怒られた。もうやらない。

 

仕事中にふと「発達障害は知的障害の一種」ということばを思い出して、自らの幼さについて考えていたら辛くなった。

自分が人に身体的な接触を望みがちなのも、言動も行動も全体的に幼いのもどちらかというと愛着障害のせいではある。

過去の話を擦るのはよくないので割愛させてもらう。

彼氏に恋人ではなく保護者としての一面を望んでいるかもしれないことが苦しい。

 

とにかく今は落ち着いて仕事と生活がやりたい。あまり薬の過剰摂取に頼りたくない。

人と比べるのをやめて自分らしく生きられたらどんなにいいものか。

人並みなコミュニケーションができない21歳成人女性が『かわいいのルール』を読んだ

自分の全ての過失を家庭環境のせいにするわけではないが、家庭環境というのは恐ろしいものだ。

母親が「ありがとう」と「ごめんなさい」を言うのは本当にかなり稀、母親が「いただきます」「ごちそうさま」をしているのを見たことがない、というような家庭で育ち、祖母も最初の方は注意していたものの諦めて注意をしなくなった。

私はそれを見て育ち、「いただきます」と「ごちそうさま」が言えるのは稀、「ありがとう」と「ごめんなさい」が恥ずかしくて言えないというような余程恥ずかしい人間に育ってしまった。

 

そんな人間も月日が経ち21歳、彼氏ができて同棲することもある。

付き合う前彼氏と初めて会った時から「ありがとう」が言えず、LINEで「ありがとうとごめんなさいが言える人間になろう」と言われるもなかなか実生活で「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えるようにならずによく喧嘩した。

「こうなったから助けてほしい」と言うべきところをLINEにスクショ1枚貼って伝えようとしたこともあった。

これを書いている日の昼も私が同棲する上でついてはいけないレベルの嘘をついていたことで怒らせてしまった。

こんな人間を好きでいてくれて仲良くしてくれて私が変わろうとする限り何回でも許してくれる彼氏は聖人君子だと思う。

 

「ありがとう」と「ごめんなさい」は条件反射的に言えるようになったものの、それではコミュニケーションになっていない。

ご飯を作ってもらってありがとう、は言えるものの「美味しい」以外のコミュニケーションを取るのが難しい。

喜びの感情を表に出すのが恥ずかしく、棒読みのような発声で取り繕ったような喜びしか表に出せない。

ロボットの方がもっと上手にコミュニケーションが取れると思う。

私の課題は人と関わる上での最低限の礼儀と、関わる人が不快にならないようなコミュニケーションだ。

 

そんなとき、彼氏と共有しているdiscordサーバーに「これ読みたい」と『自分をもっと好きになる 【ハピかわ】かわいいのルール』のAmazonのリンクを貼った。

次の次の日くらいには買ってきてくれて、「これ読んで」と言われた。

パラ読みした感じ私に大事なことが全部書いてあるらしかった。書いてあった。

 

女児向けの本、すごい。

当たり前のことだけど自分ができていないことがたくさん書いてある。

小学生当時できていなかったこと、知らなかったことが多い。

ファッションの項目も知らないことばかりで勉強になった。ヘアオイルも欲しくなった。

21歳にもなってヘアオイルを美容院以外で使ったことないのは恥ずかしいけど、これから分かっていきたい。

マニキュアもまたやりたくなった。

コミュニケーションの項目は私に1番大事な項目かもしれない。元気に挨拶ができるようになりたい。挨拶のできる人間は建設もできる。

これからちゃんとするの(可愛くなるの)恥ずかしいよな……って思ってたけど恥ずかしくない、これからちゃんとして恥ずかしくない人間になる!

 

以下は私の読書メーターの感想文。

21歳、一般常識がない成人女性の私に恋人が与えてくれた。あの頃家族から教えて貰えなかった・身につけられなかったことが全て網羅されていた。 言わなきゃいけないと分かっているけど恥ずかしくて言えないことを「ちゃんとありがとうは言おうね」と指南してくれるこの本は間違いなく精神年齢が周りよりも低いまま大人になってしまった人達へのバイブルだ。 一気読みしたので全部を覚えきれているわけではないので、あとで実践したいことに付箋をつけていこうと思う。 本当に読んでよかった。子供はもちろん、大人も読むべき本。

 

大人のみなさんも読んでください。みんなですてき女子になりましょう。

最後の方のページの恋バナの付き合ったことあるのはどんな人?みたいなところで「先生と付き合っている子も!」みたいなこと書いてあってびっくりしてひっくり返った。

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長い冬を知らない土地で過ごす、12月

元々東京への転居予定はあったものの、予定を大幅に繰り上げて12月の上旬から東京で恋人と共に暮らしている。

家族に毎日死ねと罵られたり優しくされたりする、十数年続いた生活からの解放だった。

札幌でずっと暮らしていたので東京の寒さを舐めてかかっていた。

室内は札幌よりもずっと寒いので札幌にいた頃よりも厚着をして過ごしている。

東京は外の室内が暑い。東京は喫煙所がなさすぎるけど、その辺に吸えるところがあったりする。東京は路線が多い……。

ずっと憧れてきた都会での生活というものに急に放り込まれた上、嫌われたら凹む、恋人という存在とひとつ屋根の下で暮らしている。

私はガサツだし生活能力がない上に人の気持ちがわからないことの方が多いので、家事の基礎の基礎とコミュニケーションの基礎、金銭管理について教えてもらっている。

おかげで言葉に気を使うことが増えた。ツイートに関しては「何を言ってもいい」というスタンスなのか、私が棘のあるツイートをするところを後ろから見られていたりしてスリリングだ。

多分早くインターネットをやめてほしいと思われていると思う。

恋人の家に転がり込んで1週間もすると、家族も私が恋しくなってきたのか、私にあれだけ死ねと言ってきた口で「寂しいよ、正月には帰ってきてね」と電話してくる。私もつられて泣きそうになってしまうが帰る気はない。

家族は私の同棲生活の破綻を望んでいる。そしていつまでも何もできない〇〇ちゃんであることを望まれている。

21歳になっても何もできないことが多すぎて周りとの隔絶を感じている、家族に望まれる私になってはいけない、でも小さい頃から私の面倒を見てくれていたのは家族で……。

恋人は私が有り得ないくらい変な態度を取ろうが、やらかそうが、体調不良でへばっていようが私の面倒を見てくれている。

人から正しく愛されているということを恐らく人生で初めて実感して戸惑っている。

いつかは恋人も私を見限るんじゃないかということを伝えては恋人をやんわり不快にさせている。

申し訳ないけれどこれは事実で、私のことをいくら愛おしいと思ってくれた人も数ヶ月もすれば疲れてしまっている。

見限られないために私は頑張る必要がある。見限られないように頑張らなければいけない。だから見捨てないでほしい。

恋人と同棲するに辺り交換日記を書いているけれど、流石に上述したようなことは書けないのでブログに書いて日記とする。

正しい愛情を与えられることで私がよくなっていくなら、正しい愛情が与えられているこの環境をなくさないように努力していきたい。

恋人にはこれからも仲良くしてもらいたいし、友達とはどんどん交流していきたい。

東京に来たことにより自分よりすごい人が近くにいる機会が増えたことによる苦しみもある。

自分の人生は常に複数の苦しみと葛藤によって成り立っているのだと思う。

恋人が作ってくれたキムチ鍋がすごく美味しかったことを今ふと思い出した。

今の若い人はエロゲなんかやらないから現代の若者のシーンからエロゲは消えた

旧・NHKにようこそ!を購入した。安倍吉俊大好きだからもう表紙だけで嬉しいね。読みます。

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NHKにようこそ!が刊行されるらしい。多分このブログを書いている3日後とかの気がする。

なんで新版が刊行されるのにわざわざ2005年刊行の旧版を買ったのか?(新作とは書いてあるがリビルド版である、旧版を読み終わったら新版にも触れたい)

 

NHKにようこそ!(以下新版)のAmazonの説明には、佐藤達弘がVRゴーグルを被りアダルト動画投稿サイトを眺めていると……とある。

常日頃エロゲをカチカチとマウスクリックしている私には本当に馴染みのない話である。

そう。そこである。新版になったことによってもうそこから自分はついていけない気がしているのだ。

恐らく令和向けにリビルドされたことによって今の若い人には馴染みがあるものが、私には馴染みがなくなってそこからあるかもしれない日常ではなく、切り離された非日常としてしか受け取れなくなってしまった。

 

今の若い人はエロゲなんかやらないから現代の若者のシーンからエロゲは消えた、になる。

 

世界がおかしいのか。いや、私がおかしい。

多分周りに話を聞いたらみんな多分VRアダルト動画に触れているのだと思う。

ずっと10年くらい前の成人向けゲームをマウスクリックし続けている私が多分世界に置いていかれている。

新版で描かれている令和と、自分が今生きている令和の引きこもりオタクの生活が擦り合わせられないから多分受け入れられない。

 

信じられないことはたくさんある。

多分自分のTwitterのフォロー欄を離れて現実世界で関わるオタクと喋れば、成人向け美少女ノベルゲームをやっていて、きちんと内容について喋れるオタクなんてほんのひと握りなのである。

恐らく今のオタクはエロゲなんかやらない。

それを信じたくない。

でも佐藤くんが作るものが同人エロゲではなく催眠音声になってしまうフィクションの世界を見せられたら、そうとしか言えなくなる。

 

ずっと自分は平成に取り残されるしかない。

死と哲学、救済について

 (2024.10.09追記:北大哲学思想サークル前会長様に許可を頂き、北大祭2024にて頒布された北大哲学思想サークルの部誌『開拓』に寄稿させていただいた文章を、加筆・修正の上公開させて頂きます。加筆・修正と公開を快諾して頂けたことを心より感謝致します。)

 

 自死についての話題が含まれています。苦手な方はご注意ください。

 

 今この文章を読んでいる皆さんは哲学に造詣がある方なのだろうか。

それとも哲学に少しは触れたけれどまだあまり知らない方なのだろうか。

はたまた、何も知らないけれど哲学ってなんとなくカッコ良さそうだからという理由で手に取られた方なのだろうか。

文章というのは読み手ではなく書き手に意思があるものなので、私の話をしていこうと思う。

ハッキリ言うと、私は哲学に全く明るくない。本当にこの用語聞いたことあります!程度の知識で北大哲学思想サークルに在籍しているし、この文章を書いている。

 

 私は高校生の時にインターネットで関わりがあった人が趣味で哲学をやっていて興味を持った。哲学ってよくわからないけれどかっこいいよね、くらいの意識で方法序説を買って読んだ。本当によくわかっていないまま読破したのであまり覚えていない。

私に哲学は向いていなかったかもしれない……と思っていたけれどそれでもきちんと意味がわかった上で読破できた本がある。

 

 それは大谷祟著の『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』である。つくみず先生のかわいい表紙の本である。

 

 当時精神疾患により多大なる希死念慮を抱えてきた私にとって、インターネットでいわゆるメンタルヘルスの方々がよく話題として挙げている「反出生主義」はすごくとっつき易い思想であった。

 メンタルヘルス当事者を自称する方々が真意もよくわかっていないまま「死は救済!」とツイートし続け、それを見た私も「死は救済!」と言うようになるまで時間は掛からなかった。

ただ、時々「本当に死は救済なのだろうか?」という気持ちが出てくるのであった。

 

 死にたいという言葉は生きたいという気持ちの裏返しである、とずっと周囲から言われ続けてきて、うるせー!と思うことばかりであったが、最近は本当にそのような気もしてきた。

高校生の時は「生まれてこなければよかった」とひたすらに思い込み、反出生主義を掲げていた。

今は「生きていることは辛く苦しいけれど、苦痛の中にある幸福を少しでも味わえているので生きていてよかった」と思っている。

 

 私は生きたいからこそ脳内の苦痛に抗うために適量の薬を飲み、この文章を書くためにキーボードの前に向かっている。

今この文章を読んでいる会長さんは私の先延ばし癖(なんと、6日間)の酷さを今ひしひしと感じているだろうし、書き始めるまでに膨大な時間と気力を要した。

特に哲学に詳しいわけでも造詣が深いわけでもない私が書けることは今知っていることと自分の実体験しかないため、本当に実体験を書いてしまっても良いものかという気持ちはある。

しかし、哲学と付随したことで自分に書けるエピソードが自分の今までの人生しかなかった。

 

 数年前に読んだ本のことはほとんど忘れていくので、いつも本の話をするにもうろ覚えなのだが、シオランは自殺推進派ではなかったこと、シオランは自殺で人生の幕を閉じなかったこと、妻に支えられて人生のほとんどを働かずに過ごしたことは覚えている。

良い人生を過ごしているように見えてしまうけど、生涯を鬱と不眠に苦しめられたのによく自殺せずに生きられたなあ、と感心した記憶がある。

 

 そこから「必ずしも死は救済に値するわけではないし、生きていた方がメリットが大きい部分もあるかもしれない」と思うようになった。

そこから何度も生きることを諦めたくなったり、実際に諦めようとしたこともあった。

しかし実行する寸前で「今ここで生きることを諦めてしまって後悔しないのか」と自分に問いかけてしまう。

頸動脈をじわじわと絞める行為の最中にも、私は生きる希望について考え続けてしまう。

生に縋ってしまう。死のうとすることをやめてしまえば確かにそこにあるはずの楽しいこと、明るい未来を妄想してしまう。

だから私は絶対に生涯の中で自死を決行できないのだと思う。

 

 死にたいなら死んでみろ、という暴言があるが、死ぬことを躊躇う気持ちは恐怖や臆病さだけに括ることはできないと思っている。

人は死が見えないからこそ怯え、恐怖し、どうにかそれから逃れようとする者は死後にも安寧を求め、宗教や神を信仰するのだと思う。

私は無宗教者だが都合のいい時だけ神の存在を願って縋ったりしている。しかし神は共に歩むことも私を救ってくれることもなく、傍観しているだけである。救いの神などない。ただそこで見守られているだけなのである。

 

 今年に入ってからケロQの『素晴らしき日々』をプレイしたことが自分の創作や考え方にかなり影響を与えていて、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』がベースになっている成人向け美少女ゲームなのだが、本当にすごかった。

 

 死は生きとし生けるもの全て平等に訪れること、つまりいつか死んでしまうということ、どんなに人を愛しても死という名の終止符を打たれて幸福は終わりを告げてしまうこと。

神は存在するものを見ているだけで我々に何かをしてくれることはない。しかし、神は立ち止まって動けない人の足そのものになってくれていること。

それでも生は呪いではなく、祝福であること……など様々なことを知った。

ゲームのプレイ後に論理哲学論考を購入したが、なかなか難しいのでまだ読めていない。

 

 生きることと死ぬことについて考え続けることで人は苦しくなっていくのだと思うし、考えすぎもよくないと思っているけれど、自分がいまいち考えきれなかったり思考が止まってしまった事項についてそっと支えてくれるのがそれがどんな形であれ哲学なのではないかと思う。

 

 死ぬことについてしか考えていなかった私に少しでも生きる方向へと向かせてくれたのがシオランで、スケールをもう少し大きくして自分と他者について、世界について考えさせてくれたのがウィトゲンシュタインだと思っている。

哲学の入り口なんて人それぞれで、それが希死念慮であろうとゲームであろうと立派な入り口だと言いたい。

 人よ、幸福たれ!幸福に溺れる事なく……この世界に絶望する事なく……ただ幸福に生きよ!

 

 以下2024.10.09 追記

 私は何故かこの稚拙な文章を全世界に向けて公開する責務があるように感じていた。前会長さんに連絡を取ったところ、快諾して頂けたことにとても感謝している。

 

 やらなければいけないことがある中、かなり精神的に追い込まれている状況で寄稿用の文章を書いていたのだと思う。

時々思い出したように友人に見せたりしていたけれど、怖くて自分で読み返すことはできなかった。加筆・修正に際して読み返した。我ながら酷い文章だとも思ったし、いい文章だとも思った。やはり私の人生は死というものから切り離せないのだと思う。

 

 最近猛烈な希死念慮に苛まれて、居住するマンションの屋上まで階段で上がり、地面を見下ろしてみたことがある。夜だったこと、高所恐怖症であること、などが死の恐怖を上回ったので逃げるように地上まで下りてきた。写真に残してあるが、恐怖で手が汗ばんで震えたのを昨日のことのように覚えている。

やはり私は死ぬことができないし、死なないし、死ねない。

 

 論理哲学論考はまだ読めていないが、認知行動療法について調べたり森田療法の本は買った。この寄稿文を書いていたときよりは、生きることというか自分を苦しめずに生きていくことについて前向きになれていると思う。友達もできた。

 

 『narcissu』というノベルゲーム作品がある。ホスピスに入れられた男女2人が淡路島にナルキッソスを見に行く話なのだが、この作品を遊んだこともかなり自分に影響を与えている気がする。当時のプレイ後感想に『私は病院が怖いです 死の集合なので』と書いてあった。Steamで無料でプレイできるので興味を持った皆様はぜひ。

 

 この文章を書いていた今年上旬よりは私は前向きになれているし、幸せに生きようとできていると思う。これからも死ねない自分でいられますように。