海の見えない街より愛をこめて

好きって絶望だよね

死と哲学、救済について

 (2024.10.09追記:北大哲学思想サークル前会長様に許可を頂き、北大祭2024にて頒布された北大哲学思想サークルの部誌『開拓』に寄稿させていただいた文章を、加筆・修正の上公開させて頂きます。加筆・修正と公開を快諾して頂けたことを心より感謝致します。)

 

 自死についての話題が含まれています。苦手な方はご注意ください。

 

 今この文章を読んでいる皆さんは哲学に造詣がある方なのだろうか。

それとも哲学に少しは触れたけれどまだあまり知らない方なのだろうか。

はたまた、何も知らないけれど哲学ってなんとなくカッコ良さそうだからという理由で手に取られた方なのだろうか。

文章というのは読み手ではなく書き手に意思があるものなので、私の話をしていこうと思う。

ハッキリ言うと、私は哲学に全く明るくない。本当にこの用語聞いたことあります!程度の知識で北大哲学思想サークルに在籍しているし、この文章を書いている。

 

 私は高校生の時にインターネットで関わりがあった人が趣味で哲学をやっていて興味を持った。哲学ってよくわからないけれどかっこいいよね、くらいの意識で方法序説を買って読んだ。本当によくわかっていないまま読破したのであまり覚えていない。

私に哲学は向いていなかったかもしれない……と思っていたけれどそれでもきちんと意味がわかった上で読破できた本がある。

 

 それは大谷祟著の『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』である。つくみず先生のかわいい表紙の本である。

 

 当時精神疾患により多大なる希死念慮を抱えてきた私にとって、インターネットでいわゆるメンタルヘルスの方々がよく話題として挙げている「反出生主義」はすごくとっつき易い思想であった。

 メンタルヘルス当事者を自称する方々が真意もよくわかっていないまま「死は救済!」とツイートし続け、それを見た私も「死は救済!」と言うようになるまで時間は掛からなかった。

ただ、時々「本当に死は救済なのだろうか?」という気持ちが出てくるのであった。

 

 死にたいという言葉は生きたいという気持ちの裏返しである、とずっと周囲から言われ続けてきて、うるせー!と思うことばかりであったが、最近は本当にそのような気もしてきた。

高校生の時は「生まれてこなければよかった」とひたすらに思い込み、反出生主義を掲げていた。

今は「生きていることは辛く苦しいけれど、苦痛の中にある幸福を少しでも味わえているので生きていてよかった」と思っている。

 

 私は生きたいからこそ脳内の苦痛に抗うために適量の薬を飲み、この文章を書くためにキーボードの前に向かっている。

今この文章を読んでいる会長さんは私の先延ばし癖(なんと、6日間)の酷さを今ひしひしと感じているだろうし、書き始めるまでに膨大な時間と気力を要した。

特に哲学に詳しいわけでも造詣が深いわけでもない私が書けることは今知っていることと自分の実体験しかないため、本当に実体験を書いてしまっても良いものかという気持ちはある。

しかし、哲学と付随したことで自分に書けるエピソードが自分の今までの人生しかなかった。

 

 数年前に読んだ本のことはほとんど忘れていくので、いつも本の話をするにもうろ覚えなのだが、シオランは自殺推進派ではなかったこと、シオランは自殺で人生の幕を閉じなかったこと、妻に支えられて人生のほとんどを働かずに過ごしたことは覚えている。

良い人生を過ごしているように見えてしまうけど、生涯を鬱と不眠に苦しめられたのによく自殺せずに生きられたなあ、と感心した記憶がある。

 

 そこから「必ずしも死は救済に値するわけではないし、生きていた方がメリットが大きい部分もあるかもしれない」と思うようになった。

そこから何度も生きることを諦めたくなったり、実際に諦めようとしたこともあった。

しかし実行する寸前で「今ここで生きることを諦めてしまって後悔しないのか」と自分に問いかけてしまう。

頸動脈をじわじわと絞める行為の最中にも、私は生きる希望について考え続けてしまう。

生に縋ってしまう。死のうとすることをやめてしまえば確かにそこにあるはずの楽しいこと、明るい未来を妄想してしまう。

だから私は絶対に生涯の中で自死を決行できないのだと思う。

 

 死にたいなら死んでみろ、という暴言があるが、死ぬことを躊躇う気持ちは恐怖や臆病さだけに括ることはできないと思っている。

人は死が見えないからこそ怯え、恐怖し、どうにかそれから逃れようとする者は死後にも安寧を求め、宗教や神を信仰するのだと思う。

私は無宗教者だが都合のいい時だけ神の存在を願って縋ったりしている。しかし神は共に歩むことも私を救ってくれることもなく、傍観しているだけである。救いの神などない。ただそこで見守られているだけなのである。

 

 今年に入ってからケロQの『素晴らしき日々』をプレイしたことが自分の創作や考え方にかなり影響を与えていて、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』がベースになっている成人向け美少女ゲームなのだが、本当にすごかった。

 

 死は生きとし生けるもの全て平等に訪れること、つまりいつか死んでしまうということ、どんなに人を愛しても死という名の終止符を打たれて幸福は終わりを告げてしまうこと。

神は存在するものを見ているだけで我々に何かをしてくれることはない。しかし、神は立ち止まって動けない人の足そのものになってくれていること。

それでも生は呪いではなく、祝福であること……など様々なことを知った。

ゲームのプレイ後に論理哲学論考を購入したが、なかなか難しいのでまだ読めていない。

 

 生きることと死ぬことについて考え続けることで人は苦しくなっていくのだと思うし、考えすぎもよくないと思っているけれど、自分がいまいち考えきれなかったり思考が止まってしまった事項についてそっと支えてくれるのがそれがどんな形であれ哲学なのではないかと思う。

 

 死ぬことについてしか考えていなかった私に少しでも生きる方向へと向かせてくれたのがシオランで、スケールをもう少し大きくして自分と他者について、世界について考えさせてくれたのがウィトゲンシュタインだと思っている。

哲学の入り口なんて人それぞれで、それが希死念慮であろうとゲームであろうと立派な入り口だと言いたい。

 人よ、幸福たれ!幸福に溺れる事なく……この世界に絶望する事なく……ただ幸福に生きよ!

 

 以下2024.10.09 追記

 私は何故かこの稚拙な文章を全世界に向けて公開する責務があるように感じていた。前会長さんに連絡を取ったところ、快諾して頂けたことにとても感謝している。

 

 やらなければいけないことがある中、かなり精神的に追い込まれている状況で寄稿用の文章を書いていたのだと思う。

時々思い出したように友人に見せたりしていたけれど、怖くて自分で読み返すことはできなかった。加筆・修正に際して読み返した。我ながら酷い文章だとも思ったし、いい文章だとも思った。やはり私の人生は死というものから切り離せないのだと思う。

 

 最近猛烈な希死念慮に苛まれて、居住するマンションの屋上まで階段で上がり、地面を見下ろしてみたことがある。夜だったこと、高所恐怖症であること、などが死の恐怖を上回ったので逃げるように地上まで下りてきた。写真に残してあるが、恐怖で手が汗ばんで震えたのを昨日のことのように覚えている。

やはり私は死ぬことができないし、死なないし、死ねない。

 

 論理哲学論考はまだ読めていないが、認知行動療法について調べたり森田療法の本は買った。この寄稿文を書いていたときよりは、生きることというか自分を苦しめずに生きていくことについて前向きになれていると思う。友達もできた。

 

 『narcissu』というノベルゲーム作品がある。ホスピスに入れられた男女2人が淡路島にナルキッソスを見に行く話なのだが、この作品を遊んだこともかなり自分に影響を与えている気がする。当時のプレイ後感想に『私は病院が怖いです 死の集合なので』と書いてあった。Steamで無料でプレイできるので興味を持った皆様はぜひ。

 

 この文章を書いていた今年上旬よりは私は前向きになれているし、幸せに生きようとできていると思う。これからも死ねない自分でいられますように。