客観的視点から見ていたアニメキャラの主観がいつの間にか自分の主観だった
お久しぶりです。
タイトル通りです。アニメキャラの主観がどういう感じなのかはどういうアニメのどういうキャラかによって違うのですが。
中学生のときにAIRのアニメをみていました。
神尾観鈴さんはちょっとどころか割と変わっていて、友達ができなかったりする女の子だった。
私は中学生のときは割とコミュニケーションに難を抱えているわけでもなかったので、友達ができないというところに「かわいそう……」という気持ちしか抱いていなかった。
私は高校生になった。小学生のときから目指していた高校にあっけなく落ち、高校受験に失敗して人生全てを否定された気持ちになった私がメンタルの崩れを起こすまでそう時間はかからなかった。
自分は寧ろメンヘラを馬鹿にして生きていた部類だったのにメンタルが崩れてメンヘラにかぶれる方向に走っていったことがかなり嫌だった。
当時15歳だったので18歳になるまでに思考の捻れ方も含めて正常に戻るだろうと思っていたけれど全くそんなことはなかったし、20歳になった今の方がねじ曲がり方は大きい気がする。
病院に通う必要が出たことよりもパニック発作に悩まされることよりも衝動性で他人に迷惑をかけたり精神的な自傷をしていることよりも、思考がひねくれてしまったことで生きることが中学2年生までの人生の5倍くらい難しくなった気がする。
自分の普通がなんなのか分からなくなったから自分の普通が明るいのか暗いのかすらわからなくなったけれど、多分明るい性格だと思う。
人といる時は基本明るいし、明るいときは人と話すのが楽しいし嬉しい。
暗い時は暗いし、常に人に会いたいし寂しいと思う。今日は寂しいとかじゃなくて心に空洞ができた感覚だった。対人が自分の全てであったような気がしてしまった。
人に会いたいけれど友達と呼んでいい基準が何も分からなくて、人にDMを送ったり遊びに誘ったりできない。
ご飯に行った時に電話がかかってきて「あ、今友達とご飯食べてて……」って言った後に友達なのかどうかわからなくなって確認を取ってしまったこともある。
クラブで会ってお話するだけやクラブ帰りにご飯を食べることから友達と呼んでいいのか、それとも2人でご飯を食べたり遊んだりしたら友達なのか、それともdiscordで集まってゲームをやっただけでも友達と呼んでいいのかわからなくなってしまった。
私たちって友達だよね?と確認するのは重すぎるし、そうじゃなかった場合が怖すぎてできない。
普通の友達がどうやってコミュニケーションを取ったり距離感を測っているのかわからない。
インターネットに張り付き続けるよりも友達と遊んでみたいなって思うけれど、友達だと思われていなかった場合が怖すぎて自発的に連絡ができない。
だからTwitterで「誰かと会って話したいので連絡ください!」だとか受動的になってしまって自分から行動を起こせない。
Twitterで「誰かと会って話したいので連絡ください!」と言って連絡が貰えているタイプの人は人当たりが良くてほんとうに優しいタイプの人だ。
私は人当たりが良い方ではないし、人に優しくできていない方が多い。
そういうところでも人間としての出来の差を感じてしまう。
人といると空回りしてしまったり浮いてしまったりすることも多くて、後から物凄く落ち込んでしまう。(寧ろ落ち込まないことがない)
人と会ったり話せるのはすごく嬉しいけれど、会えば会うほど話せば話すほど自分の対人に対する欠点が浮き彫りになってくる。
神尾観鈴さんは空回りしちゃうし変な子だから友達ができないけど、ひたむきで優しくていい子だった。
自分は神尾観鈴さんの主観を主観で見ているわけではなくて、自分と似ているようで全然違う、自分がなりたかったものを客観的に眺めているだけに過ぎなかったんだと思う。
私は優しくはなれないしどっちかというと嫌な人間だから絶対に神尾観鈴さんみたいにまっすぐには生きられない。
神尾観鈴さんは神尾観鈴さん、わたしはわたしの人生を生きていくしかない。
友達の境界線がわからなくて人との距離感もわからなくて、人と話す時に空回りしちゃったりしても1人で周りの人間のことを考えたりするしかない。
苦しいけれど、対人関係に苦しみを感じ始めて4年生き抜けてこれたしこれからもどうにかするしかない。どうにかならなければいけない。